随筆の最近のブログ記事

リハビリの夜 熊谷晋一郎著 医学書院

 今日、本棚の整理をしていて見つけた。

そうそう思い出した。凄く勉強になった本だった。


 著者熊谷晋一郎さんは、新生児仮死の後遺症で脳性まひに。小中高と普通学校で学び、毎日リハビリに明け暮れる生活をされていました。

 大学は東大医学部に進学、2010年現在は東京大学先端科学技術研究センター特任講師をされている。

 本書は、身体に合わないリハビリやトレーニングを18年間も強制され続けてきた体験と、そこから解放された道程を、全ての介護者に理解してもらい、うまく自分の意志を示せない身障者のために、書かれている。

 一般的に介護者は「基本的な健常者の体の動かし方」というものを身障者に教えトレーニングで身につけさせようと懸命になっている。介護される方はそれに応えようと、痛く体がスムーズに動かなくても懸命に努力する。しかし効果はあまりあらわれない。
 
 身障者の身体は緊張からカチカチに固まり、介護者に気を遣い、手本どおりにうまく身体を操れない自分に苛立ちコンプレックスも持つようになる。

 熊谷氏はこのようなリハビリのあり方に不審を抱き、大学進学を機に家から出て1人暮らしを始めることを決意する。

 両親は当然とても心配されたけれど、両親なきあと1人で生活できるようにならなければと、自立の一歩を踏み出す。何もない部屋の床にごろんと横たわった状態からはじまった。

 先ずはトイレ。汚物にまみれながら、トイレに自分を合わせるのでなく、自分にあったトイレを業者に作ってもらうことが必要だと気付く。

 そのようして手本のない所から、自分に合ったオリジナルな環境作りを一つずつ考え、実行していく。

 このようにして障害者自立のためのプロセス、介護者には必要な相手の思いを察する力、それが健常な体の動きを導き出していくことを確認する。

 脳性まひという、「脳の損傷が原因でイメージに沿った運動を繰り返すことが出来ない状態」からどのように固まった身体を解放していくかを、理論的に分かりやすく説得させてくれた。

 このことは脳性まひに限らず、体の自由が利かなくなった人の介護をするときに絶対に必要なことを教えてくれた。

 体の不自由な人は、自分の思いを介護者に上手く説明できないことも多いから、この本は強い説得力で代弁してくれて、介護者必読の本だと思った。

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「寅さんとイエス」 米田彰男 著  筑摩選書

寅さんとイエスの組み合わせ。

突拍子もない組み合わせに見えますが、1神父さまによる楽しくも奥深い謎解き物語とも言えます。

著者の職業柄イエスの生涯、聖書に関しては専門的で、ギリシャ語で書かれた聖書の語句の意味まで調べ探り書かれているのは当然としても、「男はつらいよ」の第1作から第48作まで研究し尽くされ、イエスと寅さんを比較しながらの話は、ミーハーの私にも、最後まで飽きさせませんでした。

私は「男はつらいよ」の映画は、高速バスで3本ほど見ただけですが、著者による解説が上手で、マドンナ役の女優さん(浅丘ルリ子、若尾文子、いしだあゆみ、樋口可南子、八千草薫などなどいっぱい)の名前や役柄、映画の内容がありありと想像できて、あたかも全巻みたような気持ちになっています。

<<真の幸福・人生とはなんだろうか?
功利性のみが支配する現代の中で、寅さんとイエスの比較を通して考える。>>
という著者の思いがやわらかく心に伝わりました。

何だか疲れたなあと思うときにパラパラと何度も繰り返して読んでみたい気持ちになる本でした。

『男はつらいよ』は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く) のテレビドラマおよび映画である。テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎 が、何かの拍子に故郷の葛飾柴又に戻ってきては何かと大騒動を起こす人情喜劇。1作ごとに叶わぬ恋のマドンナが登場する。

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須賀敦子全集 第1巻 第2巻(全8巻のうち)  須賀敦子著 河出文庫
須賀敦子さんは1998年にお亡くなりになり、存命なら84歳になられます。
丁度著者と同じぐらいの歳で尊敬している親しい友人が、「時々この本を開いて読むと、何だか懐かしい気持ちが湧いてきて、とてもいい本よ」とおっしゃるので、お借りして読みました。

須賀敦子さんは、聖心女子大学を卒業された1953年にフランスに2年間留学。フランスとは相性が合わず、帰国され、2年後にイタリアに再留学。イタリアとは相性が合い、ミラノ、ナポリ、ヴェネチアなどで学び、住人と親しく交わる中で、イタリアの地方の微妙な言葉の違いまで分わかるほど語学に精通され、日本語からイタリア語・イタリア語から日本語の文学の翻訳で才能を発揮されました。川端、谷崎、庄野潤三、石川淳などの翻訳は大変評価されています。最初の翻訳は1962年の谷崎潤一郎の「春琴抄」を夫と共訳ということで出されました。

13年に及ぶイタリア在住中にコルシア・デイ・セルヴィ書店で多くの人々と交流し、そこで知り合ったペッピーノ・リッカと結婚されます。ところが結婚生活2年半で夫君の急死、2年後1970年傷心のうち日本に戻り、上智大学比較文化学部で教鞭をとりながら思い出のエッセーを次々と上梓され、1991年に「ミラノ霧の風景」で女流文学賞、講談社エッセイ賞を受賞されました。

以上のような作者紹介では、上流社会の恵まれた女性の生涯をイメージされるかもしれませんが、イタリアでの暮らし向きは、志は高く、貧しく、夫を始め多くの友人はごくごく普通の下町の人々で、しかもそれぞれが深い苦難と戦い,乗り越えた輝く人々であり、彼らに囲まれて培った想い出をエッセイに込められています。

彼女が留学された時代は、まだ日本からの留学生は稀な時代。絵画や音楽などのアートでなく文学というエリアでの世界がとても珍しく引き込まれました。

また日本に於いても、修道院、寄宿舎、修道女などの記述が、同じカトリックミッションスクール育ちの者として親しみを感じ、生まれが兵庫県で芦屋や夙川育ちというところや、帰国されてからの、廃品回収のエマウス運動のボランティア共同体作りのいきさつなど、活動も地に付いた本格的なもので、釜が崎の暁光会のこととも関係があったと知って驚きました。暁光会所属の池田神父のお手伝いでジャガイモつくりを蓼科で一時したことがあるからです。

3巻から8巻も読んでみたいと思っています。

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「困った人間関係」の精神分析  小此木啓吾著 新潮文庫
世の中には「困った人」だらけである。

この本では、その困った人たちを挙げ、その人たちの精神分析をしている。

第1章は、評判の良い困ったひとたちとしては、'親切すぎて煩わしい人'から'正義を振りかざす怖い人'まで、6つの困った人たちが紹介される。

第2章は、愛と憎しみの困った人たちとして、相手を困らせ、自分も苦しむ'恋に狂う人'、'ねたみ深い人'、'やきもちやきの人'とある。

という具合に、5章に分けて困った人たちとその精神分析が、19項目に分類されて羅列されている。

そうそうその通り!そんな人いるいる!と思って読むうち、私も人から困った人と思われているのではないかと、思わされて、困った気持ちになってくる。

自分にとって困った人と付き会いたくない場合は、その人と離れれば解決するのだけれど、離れることを許されない場合、困ってしまう。たとえば親子間の困った関係、夫婦間の困った関係、仕事の上司との困った関係、ご近所さんとの困った関係、国と国の困った関係も、、、、などなど。

この本では、困らせる人の精神分析はされているけれど、相手に私を困らせるのを止めさせる方法が提示されていない。提示されていたとしても、困らせる相手の性格を変えさせるのは不可能であると思う。

例えば、夜泣きする赤ちゃんに困っているお母さんが、赤ちゃんの口をふさいで泣き止ます訳にはいかない。(最近その手の母親が出てきているようだが、、)

困らせられている自分のあり方を考えなければならない。

自分が困ったと感じないように,工夫をしなければならない。

困らせる人だらけのこの世では、誰もがお互いの精神状態を見極めながら付き合いの工夫をしてこそ、平和に暮らせるのだろう。それが出来ないところには、人間関係に無理解という苦しみが生じて、困ったことになるのだろう。

現に私の生活には、私に工夫がたりなくて、'困らせられている苦しみ'が存在している。

困ったものだ。


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徒然草 吉田兼好著 角川ソフィア文庫
方丈記を読めば次は徒然草でしょう。著者吉田兼好は1,283年ごろ生まれ1,352年ごろ没という。ええっ?兼好は長明より130年ほど後輩なんですね。知らなかった。教養の無さが恥ずかしいです。

いずれも世の無常観を書かれた書として有名なのですが、方丈記が源平の争乱のなかで書かれたとはいえ、平安京の雅っぽさが漂うのにたいし、徒然草の方は南北朝の動乱のさなか武士っぽい固い口調で書かれている。なんだか説教じみた匂いを感じる。


書かれている内容は700年も経つというのに、そのまま現代にも通じるご意見です。お堅い人物と思われる一方、人間が好きで、徒然草に登場させる人物には、褒めたり、叱ったり、励ましたり、笑い飛ばしたりして、その中に無常観を含ませる話題が絶妙です。

徒然草も方丈記と同じく、最初の章しか記憶が無かったのですが、やはりこの序段があってこそなので、序段を書き写します。

つれづれなるままに、日暮らし硯に向かいて、心にうつりゆくよしなしことを、そこはかなく書き付くれば、あやしうことこそもの狂ほしけれ。

気に入った章としては、第155段です。四季の移り変わりと人生の移り変わりについて、春、夏、秋、冬、あるいは、生,老、病、死の移り変わりは、それぞれが分離して現れるのではなく、春の中に夏が、生のなかに老が潜んでいるというくだりが、なるほどなるほどと思わされて考えさせられました。

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方丈記 鴨長明 角川ソフィア文庫
鴨長明(1155~1216)は平安時代の末期・鎌倉時代の文人で、彼の書いた「方丈記」は日本人の誰もが中・高校の国語授業で学んだはずです。

私もそうですが、書き始めの[行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、人とすみかと、またかくのごとし。]という口調までは覚えていますが、あとはおぼろ、、、。

簡単に説明しますと、長明は、今の下鴨神社の正禰宜(ねぎ)の次男という身分の高いところに生まれたけれど、相続争いで負けて、終の住処となる広さは方丈(今の4畳半ぐらい)の小さな庵を京都の郊外(今の伏見のあたり)に建て、そこから世の中・人生の無常について書き記したのです。

正岡子規は病気で<病床六尺>となり、優れた俳句を発信し続けましたが、長明は隠遁といっても山奥にではなく都の郊外なので、頻繁に自由に出かけていたらしいです。

時は源平の争いの真最中、宮廷から武家の社会に変わるは、天地異変が次々起こるはの大混乱のなか、長明は小さくともセレブな庵に鎮座しつつ、被災体験者として克明に混迷する都のさまを、書きのこしたのでした。

彼は芸術家としても一流、知識人としても一流で、野心家でも策略家でもなく、大火、竜巻、飢餓、地震が京を直撃しても、己を高めながらぶれることなく、書き記したのです。

その頃から800年たった今も、世界中で頻繁におこっている大殺戮、地球異変。

新聞で、「京都で起こった天災・人災について書かれた「方丈記」の出来事が、今もなお世界中で見られる」という記事を読み、何十年ぶりかで再読し、現代に通じるそのリアルな描写に驚いてしまいました。

なんという空しさ。しっかり無常観に浸りました。

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「目を閉じて心開いて」ほんとうの幸せとは何だろう 三宮麻由子著 岩波ジュニア新書

三宮さんの著書の第3弾です。

少し長くなるけれど前書きから抜粋します。
・・・
 幸福について考えたくなったら、この本を開いて見て欲しい。
 幸福になれる時期は一人一人違うかもしれないけれど、幸福になる力は、すべての人に同じように与えられていると思う。

 この本を読み進むごとに、ぜひ目を閉じて、静寂のうちにあなたの魂と対話してほしい。清純な思考は汚れを寄せつけず、揺るぎない確信へと進化していくからだ。
・・・・

数々の感動のエピソードが語られている中で、彼女を育んできたものは読書であるとおっしゃっている。シーンレスの彼女はどのように読書に親しんでこられたのか。

読書好きの私にとって、とても気になる課題だった。

最初に読み果たした長篇は、大学入試とともに開いたモンテーニュの「随想録」だと言う。それは何と点字にして14冊。4年かけてゆっくり読みそのあとフランス語での原書をフランス点字図書館から取り寄せて読まれたという。
そのあと「アラビアン・ナイト」の本点字にして99冊よんで感動されたという。この本は、三重県の図書館に、地域の点字サークルの人たちが、1点1点手で打ち込んで作った本あると聞いて貸し出しをお願いされて2冊づつ借りながら読まれたという。

「本は点字やテープでたくさん読めるけれど、一度でいいから漫画をよんでみたいな」とつぶやいたら、友達が「よっしゃ」と朗読を請け負ってくれて、池田理代子さんの「ベルサイユのばら」を全編読んでくれたという。3ヶ月かけて、120分のカセットテープ10本。この膨大な漫画を何十時間もかけて自分のために割いてくれた友人に手放しで心から感謝したとのこと。

凄すぎる!彼女を取り巻く愛。それに応える麻由子さん。そこには双方の幸福が満ち溢れている。

シーンレスの彼女は、私のようにざ~と斜め読みとかされないし、本も厳選されたものであり、それこそ一字一句丁寧に集中して読むということになる。そこで本の中の世界を脳裏に創造して遊ぶといわれる。

シーンレスの麻由子さんから、この本を通して、闇に光る清純な幸福の世界を教えてもらって心から感動を覚えたのでした。

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「人生を幸福で満たす20の方法」三宮麻由子著 NHK出版 生活人新書

再び三宮麻由子さんの書です。

著者の三宮さんは、4歳の時視力を失い、その後何年も続く混乱時代の中から希望を見出し、前向きに幸福感を持ちながら生き抜いてこられました。

今は外資系通信社で報道翻訳の仕事をもち、優れたエッセイストとして活躍されています。

エッセイは、シーンレス(全盲)という特殊な境遇から生み出されたのでしょうが、私には、1人の困難を乗り越えた普通の人間として、困難を抱えるすべての人に向かって書かれた書物であると感じました。

彼女が体験された困難や乗り越えられた気力には、ただただ頭が下がるばかりですが、私をとりまく困難と思っていた出来事は、実にささいなことであり、思わず生活を見直そうという気持ちにさせられました。

「人生を幸福に満たす20の方法」という提言を大きく①空虚な日々を楽しむ方法②絶望の日々を生き抜くために③幸福力アップの秘訣という3つにわけて、ご自分の体験にあわせて分かりやすく書かれています。説得力があります。

20の方法の根底にあるのは、幸福は自分に与えられる喜びではなく、人のために役に立つ喜び<他利>の中にあるという気持ちです。


自分に課せられた困難は修練ではなく、神から与えられた「特色」ではないでしょうかという言葉にも納得させられました。

この本は本棚の目立つところに置いておかなくてはと思いました。

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ルポエッセイ「感じて歩く」三宮麻由子著 岩波書店

全盲(シーンレス)の著者が歩きながら考えたルポタージュです。

ネパールでの視覚障害者のためのケアをするにあたり、見えない方たちの世界を知りたいと思って、最近その種の本を読み漁っています。

新聞の書籍案内で知りすぐ購入しました。

学ぶことがいっぱい、感動でいっぱいになりました。

まず著者が命名された言葉、「シーンレス」に納得。
私が見えているシーン(scene・場所・場面)が、取り去られた人々と、考えていいのかしら。

シーンレスの世界をマイナスのイメージとして捉えておられません。

白杖を自在に操りながら歩くことは、危険いっぱいの「戦場」を歩くことでもあるけれど、社会と繋がる道でもあり、自分の存在そのもを感じる世界を感じる手段でもあるわけです。

<街の賑わい、草木の揺れる音、小鳥の囀り、人々の言葉、さまざまな風や季節の匂いを愉しく感じながら、今日も歩く、、、、、、。>

シーンレスの人々だけではなく、障がいをもつ、あるいは持たない全ての人々にとって、誰もが歩きやすい道、否、生きやすい社会とは何かを、体当たりの経験から綴られた素晴らしいルポです。具体的で的を射た提言がいっぱいあり、なるほどなるほどと納得できます。

彼女は上智大学を卒業、アメリカ、フランスにも留学され、数々のエッセイや著作があり賞もとっておられるエッセイスト。今翻訳の仕事もしておられます。

3月11日の東日本震災を東京の仕事場で遭遇し、高層ビルからの脱出ルポもあります。

盲導犬と白杖との違い、障がい者と健常者との共存、絆について、しみじみ考えされられたことがいっぱい。


LSGの子ども達に生かせる多くのヒントも得られ、彼女の著書をもっと読んでラリグランスクラブの支援者のみなさまにも紹介したいと思いました。

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「わたしの宗教」へレン・ケラー著 静思社
ラリグランスクラブで視覚障害児との付き合いが増えてきたので、彼らが住む暗闇の世界・考えなどを知りたくて、経験者のお話をきいたり本を読んだりしている。

その都度、私のあまりの無知さを思い知らされ、もっともっと勉強しなくては支援活動が誤った方向にいってしまうのではないかと心配になる。

へレン・ケラーは目が見えないだけではなく、聞くことも話すことも出来ないのに、ハーバード大学の女子部とラドクリッフ大学に学び2つの学位を贈られ、不幸な人々のために世界中をまわり、講演し、自らを捧げつくし、目を見張る業績を遺されたのであるが、その鍵を知りたいと思っていた。

そんな時に教会の図書館でこの本が目に付き読みました。

家庭教師のサリバン先生との葛藤は演劇の舞台でも取り上げられて有名になっているが、彼女は6歳の時に先生から水を手のひらに受けて、それがWarterという名前があると知らされ実感として受け容れるまで、暗黒の泥沼の中でもがき苦しむ日々だったという。
そのことがきっかけで、彼女の中に、見えて聞こえる人の世界を理解するようになり、ここが重要なポイントだが、彼女は見えて聞こえる人の世界以上に、自分が見えて聞こえて感じることが出来ることに気付くのである。

そこまでに至った路程がスエデンボルグという宗教学者の宗教観によって鮮明に理解できるようになり、そのことを、見える人と見えない人、聞こえる人と聞こえない人に伝えたいと世界中を旅したとも言える。

私たち見える人から考えると、見えない人は暗闇の中で生活していると思ってしまうのだけれど、実は暗闇ではなく光輝いていて、そこには風のゆるぎ、花々のカラフルな色で満たされ、人々の姿は形からではなく人がもつ魂の霊感を感じて人に接するというのである。

見えない人聞こえない人は、人間界から超えた霊界で生活していると言っていいみたい。

私は死んでも魂はのこると信じているがその世界はこの世の形あるものではない霊界なのだから、見えない聞こえない人は一足先にこの世に生きながら霊界に住んでいるとも言える。

ややこしい説明で申し訳ないけれど、言えることは、見えない聞こえない人の世界は、私の住む狭い世界より限るなく広い世界であるようだ。

見えない人が全てヘレン・ケラーのように感じているのか、それとも個人差があるのか分からないけれど、LSGの子どもからその素晴らしい世界のことを感じ取れたらいいなあと思っている。

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